Zwangsvollstreckung

執行とか、本とか、出来事とか。

Stay Tuning TOKYO Friday Night

 

TOKYO ART CITYというプロジェクションマッピングの展示に行ってきた。

都市はアートなのだ、という趣旨の展示だ。

 

都市はアートなのだ。というと、どことなくルフェーブルっぽい何かを感じる。

もっとも、ルフェーブルのいう「都市」のアート的なものとは、空間の管理から外れた人間の自由な実践という意味なのだが(『都市への権利』などを参照のこと)。

ここでの都市のアートとは、そういう意味ではまったくない。

 

なんかこう、近未来のTOKYOなるものをプロジェクションマッピングで表現しているやつだ。

もともと、誰が制作したのかは忘れたけど、なんか東京には「土着的なるもの」がないと主張していて。そのなかで、東京を東京という都市たらしめているものは、「変化」であると。そして、コミュニケーションこそが、東京「らしい」都市性になると。

まあざっくり要約するとこんな感じの趣旨だ。

どことなく、マニュエル・カステルっぽい話だ。

 

ただ、東京に土着性がないと言われるとそれはすごく微妙に聞こえる。本当にそうなの?と。

そんなことはないと思うんだけどな。

 

たとえば、歌舞伎町には、飲み屋のネオンがけたたましく輝いていたり、浅草には「江戸」っぽい何かがあったり・・・。

確かに、「東京とはどういう都市か」と聞かれたらなかなか答えづらい。答えづらさのなかに「東京」の魅力はあると思う。探してもいいと思う。けれども、東京には土着性がない、とまできっぱり言われると、ちょっと待ってよといいたくなる。

同じ東京23区内でも、僕らはどこかでその場所の特徴を見出し、目的を見出し、その場所に向かうもんだと思う。その特徴は、明らかに土地に結びついているものもある。それを土着性と言わないで、なんていうんだろう。

「変化」がその場所の都市性になるとして、それしか都市性がないのが土着性がないということにつながるのであれば、ロンドンだってニューヨークだって、土着性がないことになる。であれば、グローバルシティにはみんな土着性がない、ということになるんじゃないかな、と。

 

それはさておき。

 

展示には新宿、丸の内、渋谷、お台場、東京タワーなどが、プロジェクションマッピングで表現される。

各場所の特徴を情報化するとこんな感じなんだろうなあ、と。

 

って、その地域の特徴捉えてんじゃん!

捉えどころがないんじゃないのかい!

 

という感じにはなった。

 

ただ、プロジェクションマッピング自体はとてもキレイで。

どことなく幻想的な空間があった。東京を真上から見下ろしている。そんな感じ。

 

一番良かったのは、23区の電車の路線図とか、車の交通量とか、電波の分布図とかを可視化してくれるやつ。

特に電波の分布図を可視化しているやつは、とーってもキレイだった。

プラネタリウムで、銀河を見ているようで。

わああー!って感じ。

 

カステルじゃないけど、The Internet Galaxyって感じがして。ロマンティック。

 

でも、近未来感はなかったな。それがちょっと残念、かな。

今の東京の特徴を写してるだけだから。

 

まあ、ロマンティックなものを感じる場所で、こう、東京の銀河の中で、君を見つけたのさ、みたいなことを言う分にはいいと思う(僕は絶対いわないけども!)。

どことなく、都市のコミュニケーションというか、出会いっぽくない?なんて。

 

**********************

 

それはそれとして。。。

 

僕自身、星とかそういうの、実は好きなので、

都市を銀河になぞらえる表現は嫌いではない。

こうみえても、どこかロマンチストなの。

 

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わかりやすく説明する練習をしよう。伝え方を鍛える コミュニケーションを鍛える。

 

読んでみた。

 

 

最近、データ分析の仕事も本格始動してきて、必要だと思って手に取った。

うちの会社では、自社のデータ分析を新しく始めて、ツールも導入しているんだけど、どうにもシステムとか、アナリティクス関連になると、会社として知見があるわけでもなく、プレゼンしても伝わらないことが多い。

 

それはたぶん、僕の説明に「わかりやすさ」が欠けているからだろうなと思い、もっと簡潔に、相手に負荷をかけず、言いたいことを伝える方法はないものかと思って。

 

で、結論からいうと、この本自体、そんなに説明がわかりやすくはなかった(笑)

 

ただ、「説明」という行為が、例えば、「報告」や、「詳述」「定義」「描写」といった行為とどのように違うのか、といったところや、「説明」をパッケージングするときの、「説明の尺度」=相手のトピックに対する理解の深度の話はわりと参考になるかな、と。以下順を追って。

 

本書によると「説明」とは、

「人に情報を与えて、人の記憶に残る現実に役立つ観念へと事実を変換する、創造的行為である」ということ。

いま思うと、この一文自体がすげえわかりづらいのだが、まあ、端的な事実だけがそこにあると、物事に対する理解が難しいままになってしまうのだが、そこに「これは、こういうことなんだ」という説明を加えることによって、相手もそのトピックについて理解しやすくなるんだということ。

そうすることによって、相手にとっても、理解にかかるコストを削減することができる。自分で情報を仕入れなくてもよくなるという点で。

そうした説明を達成する上で、必要なのは、視点を働かせるということ。これは、相手の立場に立って、その視点に寄り添ったコミュニケーションをすることと同じ。いわば、相手の目線や気持ちに”共感”するような説明の仕方を心がけてあげるわけだ。道を訪ねてきたドライバーに、道を教えてあげるときのように。そういうとき、運転する人の立場に立って、説明をしてあげられれば、相手もイメージしやすいものだろう。

事実を変換する創造的行為というのは、説明の伝え方によって、相手がその対象へ抱く評価も変わることに関わる。端的にいえば、興味を持たせられるかそうでないかという話なのだが、それ自体が、ある物事の評価が説明に依存しているということだろう。

よく報連相系で言われることとして、上司は、部下の報告の上でしか現場の情報を把握することができないと言われるが、あれと同じだと思う。

説明の巧拙は、相手の物事に対する理解や印象、評価をそのまま作り出す。うまい説明とは、⑴背景をきちんと説明すること、⑵「なぜ?」に応えること(理由づけを説明すること)、⑶さらに知ろうとする意欲を生むこと、といった要素を含んでいるわけだが、それに加えて、⑷ストーリーを提示することも重要になる。

まあ、概念的な理解と、共感的な理解。その両面が必要と。

 

「説明の尺度」とは、相手のトピックに対する理解の深度だ。

本書では、相手の理解度をA→Zで示していて、Aに近づけば近づくほど浅く、Zに近ければ深いということになる。

理解の深度が浅ければ「なぜ?(why?)」を。深ければ、「どのように?(how?)」を説明してあげればよい。

で、相手の理解度がどんなものなのかは、単純に、質問をしてすりあわせればよい。

これは結構なるほど、と思った。

 

僕なんかは、データの説明をするとき、相手もさすがにベテラン選手なので、割と深いhowの説明をすることが多いのだけれど、そもそも相手はビジネスについては深い知識を持っているが、データ分析に関してはほとんど専門外だ。

なので、howの説明をされても、よくわからない、という反応が返ってくることが多い。むしろ、そうではなく、「なぜ」その分析が必要なのか、というところを解消してあげなければならなかったのかな、と。そうでなければ、相手の理解にかかる負担が増えるばっかりで・・・。

その点を振り返ると、自身の説明に対する未熟さを感じたり。

 

まあ、あと内容としては、説明が失敗するのは各論すぎるとか、説明をスムースに進めるため(相手にさっくり理解させるため)には、本質と関係ないものはすべてたたき切る(背景情報までたたき切ってはダメ)とかそういう話なんだが、そのあたりの話は別によく言われることなのでいいでしょう。

 

よく言われること、当たり前のことだからといって、みんなできているとは限らないのだが。

 

というわけで、内容がわかりづらい、『わかりやすい説明をする』ための本を読みましたよっと。正直、あまり頭に入ってこなくて読んでて辛かったけど、勉強にはなった。

(個人的な感想だが、頭に入りづらい原因のひとつに、翻訳がベタすぎるというのはあると思う。ふわっとしていたり、ムリヤリ日本語にしました感があるように思えて。)

Teach Pokémon to understand the power that's inside

 

実はアメリカに住んでいたことがある。

 

小学1年から3年の終わりまで。

今から、18年くらい前…になるのかな?

 

小学3年に上がるころだと思うが、アメリカでもポケモンのアニメが放送された。

ピカチュウ!キミに決めた!」が、放送された。

 

たとえ火の中水の中…

それが聞けるものと思っていた。

 

もともとポケモンって、僕の印象だと特に明確な目的がなく、「10歳になったからとりあえず旅立ちの時だ」的な話でゲームを進めていくものだと思っていた。

マサラタウンの主人公の家で、テレビを調べると『スタンド・バイ・ミー』のワンシーンが描写される。旅立ちを暗示しているかのように。

しかし、旅立つ目的も理由もわからない。お父さんがバラモスに殺されたわけでもない(そして実は生きてた、ということもない)。とりあえず、母親から「そうよねー男の子だもんね。いつか旅立つわよね」的なことを言われる。アテもなく。

そしてとりあえず、母親の言うことを聞いて草むらに入るといきなり呼び止められる。「おーい!待て!待つんじゃあ!」そうだね。草むらは危ない。マダニとかいるかもしれないしね。

そうやってポケモンをもらって、わけもわからずいけしゃあしゃあと出てくるライバルを倒し、その後の目的も示されないまま、隣のトキワシティにいって、酔っ払いが通せんぼしているから仕方なく傷薬でも酔っ払いにつけてやろうとしたら、フレンドリィショップの店員に問答無用でパシられる。

オーキド博士にこのおとどけものを、とどけておくれよ」と。

そうやってマサラタウンに戻ったら、おもむろにポケモン図鑑を渡され、「完成させろ」と言われる。ここではじめて、旅立つ理由ができる。

で、ジムリーダーを倒し周り、唐突に四天王に勝負を挑みにいく。このあたり、図鑑とは関係があるのだろうか。それはよくわからない。

 

と、強い目的意識はなく、そこにあるのは、アドベンチャー的なワクワク感だけだったりする。

理由があって、目的があって旅立つのではない。旅立ってから、理由と目的を見つけるのだ。

これが僕の思っているポケモン観。

 

話を戻して、めざせ、ポケモンマスター!は、そのアドベンチャー感をよく表していると思う。

 

で、アメリカのPokémon。

火の中水の中…はどうなるのだろう。

異国のアドベンチャー。胸はドキドキする。さあ、どんなオープニングで、アドベンチャーが始まるのだろう!

 

Pokémon gotta catch them all

It's you and me

I know it's my destiny 

Pokémon, oh, you're my best friend

In a world we must defend

 

 

………

 

 

そこで歌われたのは、ポケモン的世界観のアドベンチャーではなく、ポケモン的世界観に生きる少年の野望だった。

 

 ポケモン!全部捕まえてやるぜ!

 

乱獲かな?(すっとぼけ)

しかも運命づけられているとのこと。

発想がアメリカ的だしロケット団的である。

 Ashくん(アメリカのサトシ)!正気に戻ろう!

 

 You teach me and I'll teach you Pokémon!

 

一体何を教えると言うんだ…。

でも教え合うのはいい関係だね!

 

Pokémon gotta catch'em all

 Yeahhhhhhh

 

やっぱり乱獲の歌だった。

イェーまで言っちゃったよ。コイツ

 

************************************

 

いつもいつでもうまくいくなんて

保証はどこにもないけど(そりゃそうじゃ) 

 

いつでもいつも本気で生きている

コイツたちがいる

 

 

不法投棄3

 

過去2回。不法投棄について書いた。

月に1度は言及している。

 

さて、前回、不法投棄に対する訴求が強くなったという話をした。

 

では、現在、不法投棄はどうなったのか。

 

 

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増えた。

 

 

 

なぜゴミを捨てるのでしょう。

そこにゴミがあったからだ。

 

以上!

 

予期してしまう悲しさ。

 

一月ほど前の話になるが、おじいちゃんの家に行った。

父方のおじいちゃんで、新潟県にいる。

兄と、父と、僕。3人で車で走った。

 

1年ほど前だろうか。正確な時期は覚えていない。

家の階段で倒れているのが発見されたそうだ。

意識がなかったのだが、無事に回復はした。

 

でも、脳挫傷を起こしてしまったので、もう一人では暮らせない。

なので、施設に入っている。

 

恥ずかしい話だが、僕はしばらく田舎に顔を見せていなかった。

5年ほど行っていなかったと思う。

兄はしばしば訪れていたようだが。

会社も変わり、ようやく行けるような生活になったから、行った。

どうしようもない奴だ。自分でもそう思った。

 

 

一日目。施設に行っても、おじいちゃんは僕のことを思い出せないようだった。

 

父「俺だよ」

おじいちゃん「うん」

兄「俺だぜ」

おじいちゃん「うん」

僕「僕だよー」

おじいちゃん「・・・」

 

そりゃそうだよなあ。5年くらい顔見せてないもん。

覚えてなくても、仕方がないよなあ。

でも、おじいちゃんは、父と兄と、よくわからないおまけが来てくれたことを

喜んでくれたと思う。

恥ずかしがると、頭を掻く。

それは僕も知っている。

 

2日目。

帰り際に、もう一度声をかけてみる。

僕「僕だよー」

おじいちゃん「・・・」

僕「ヤッホー!覚えてるー!?」

おじいちゃん「うん」

僕「そっか。覚えてたかー。よかった。忘れられてたらどうしようかと思ったよアハハ」

・・・

おじいちゃん「また、いつでもあそびにおいで」

 

びっくりした。

短いあいだだったけど、もっとも長くしゃべっていた。

ほんとうは、はっきり聞こえなかった。

でも、どう考えても、「また、いつでもあそびにおいで」と言っていたと思う。

子どもの頃は、毎夏、遊びに行っていたので、その時のことを思い出したのかな、なんて思った。

「必ず、また来るよ。いつまでも元気でね。って、大丈夫だよね」

そういって、僕も施設を出た。

 

東京に帰ってきて、兄の奥さんも合流して、飲みに行った。

バカみたいな話をしていた。友達同士みたいな。

 

おじいちゃんの話になったので、僕は言った。

「おじいちゃん、最後にね、また、いつでもあそびにおいで、って。そう言っていたと思うんだよね。はっきりとは聞こえなかったけど、でも、そう思うんだ」

それからしばらく、沈黙があった。

 

********

 

僕は、なんとなくだけど、おじいちゃんに対し、力のようなイメージを持っている。

毎年訪れるたびに、腕の力こぶを見せてもらっていた。

 

とてもたくましい、働く人の腕。

すごーい!っていいながら、見ているのが好きだった。

僕、筋トレは嫌いだが。

 

今ではだいぶ小さくなってしまって、かつてのようなイメージはもはや感じなくなっていた。

それでもおじいちゃんはおじいちゃんなのだが、なんだか時の切なさを感じざるを得ない、形容しがたい気持ちになっていた。

 

でも、なんだかとても悲しい。

 

この先に待っていることが、見えてしまうようで。

 

*************

 

正直、人の一生の終わりは、よく見てきたほうだと思う。

知っている人も。まったく知らない人のも。

それは、いつも突然やってきていたように思う。

 

けれど、終わりが予期できてしまうということに、遭遇したことはなかったかもしれない。

でも、そういうことは、あまり考えないほうがいいのかもしれない。

幸せであれば、それで。

そう、心に言い聞かせることしかできないのかも。

 

暗い話で申し訳ないが、書き留めておきたくなったから、書き留めた。

留めておきたくて。

それだけ。

いのちの車窓から見つめること。

 

会社の同僚が貸してくれたので、読んだ。 

 

いのちの車窓から

いのちの車窓から

 

 

星野源の書く文章って、ずいぶんと読みやすくなったかなと思う。

文章を書くことがうまくなったというか。

もともと下手な人ではなかったと思うけれど、なんというか、聞き触りのよい文体で書かれている…といえばいいのか。

(文字を聞く、みたいなちょっと変な話になっちゃったけど)

 

ちょっと強い言い方をすると、なんか無毒化されているような文体でもある。広く、多くの人に共感を得られるような。そういう文章になっているような気もする。

なんだか、星野源は「ポピュラー」になって、それが文章に現れるとこのようになるのかな、という感じ。

 

僕の勝手なイメージだけど、正直にいえば、もっと心のノイズ的なものを期待していた。ノイズ、を具体的に説明しようとしてもなかなかうまくいかないが、なんだろう、日常とそれに対する違和の感性、みたいな。違和じゃなくてもいいんだけど。

 

別に表現はうまくなくてもいいのだが、そのノイズを表明するところに面白さがあったように思うし、それがまた星野源という存在のユニークさになっていたような気もするけど、そういう部分がちょっと薄まってきたのかな?という印象。

まあそれが悪いとか、いいとかではなくて、なんとなく、存在が変わったのかなというだけの話。もっとも、心のノイズ的なものの記述を期待するということ自体が、ちょっと強引に期待を寄せている感もあるし…。

うまくいえないけど、ノイズ的なものが常にその人にある、みたいな想定をしているわけではなく、なんかそういうノイズ的なものとは、心のなかで波動のように観測されるべきものなのかなあ、と思ってはいるんだけどね。

(波動って言いたいだけなんだけど)

 

* * * * *

 

まあ、僕の星野源像はさしあたりどうでもいいだろう。わけわかんないし。

思ったことを3つ書く。

 

大泉洋

個人的に大泉洋の話が一番面白かった。といっても、星野源の話が面白いというよりも、大泉洋という存在が面白いという感じなんだけど(笑)

なんというか、大泉さんって、星野源のこと大好きなんだろうなあと。小学生のころ、よくいたような、好きな女の子に対して無駄にちょっかい出しちゃうような感じ。

でも、なんか、大泉さんって、人のために一生懸命になってみたり、なんだかんだ悪態をつきながらも、ちゃんと星野源のことを見ていたりして。

子どものような純真さなんだろうな、と。そういう純真さを持っている大人が一番に憧れたりする。

僕、ほんとうは、あまり大人になれない人だから…。

 

②人見知り

 それまで、相手に好かれたい、嫌われたくないという想いが強すぎて、コミュニケーションを取ることを放棄していた。コミュニケーションに失敗し、そこで人間関係を学び、成長する努力を怠っていた。

 それを相手に「人見知りで」とさも被害者のように言うのは、「自分はコミュニケーションを取る努力をしない人間なので、そちらで気を使ってください」と恐ろしく恥ずかしい宣言をしていることと同じだと思った。(99-100)

 あー。うん。わかる。わかるよー。と思って、心に刺さった。

僕も似たようなもので、僕もよく人見知りだという。僕から相手に近づくよりも、相手から近づいてきて、それに合わせているほうが楽だなあ~と思うことのほうが多い。でも、そんなの、本当に自分本位だなと思って、落ち込むことだってある。

けれど、やっぱり、自分から近づかなきゃ!という強迫に駆られるのも違うと思うし。どうしたらいいんだろう、なんて思うこともよくあるなあ、と。

でもまあ、素直になるのが、一番いいような気もしている。本にもそう書いてあるけど、好きな人には好きといえばいいし、素直な気持ちで接すればいいのかなあと。

 

もっとも僕の場合、素直すぎてやらかすことも多いが(笑)。基本的に、すごいと思ったことは素直にほめちゃうのだけど、ナチュラルに人を傷つけたり、ね。

あとは、デリカシーがなさ過ぎて、後々「うわぁぁ、やらかしちゃったなあ。嫌われちゃったかなあ。そうだとしたらどうしよ…」みたいな感覚が時限爆弾のように襲ってきたりする。

結局、僕の場合は、こういう問題って常に心のどこかにあって、ノイズとしてうにょうにょ心を漂い続けている状態なんだけど、でもまあ、なんだか前向きになれる。そんな気がした。

 

新垣結衣

僕、生きてるうちに新垣結衣という文字列を文章のなかで打つことはないと思っていたんだけどね…。

まあでも、新垣結衣って、すごく繊細で、いい人なんだろうなあと思うし、きっと星野源と波長が合っているような気もする。

俳優と「普通の人」という関係の話はなかなか面白い。有名になればなるほど、俳優からは「普通」さが消えていくが、新垣結衣はそうではなかった。「普通」の女の子として魅力的なのだ、という話は割と面白いなと思った。

いつ、いかなる時に「普通」さが垣間見れるのかは、よくわからない。新垣結衣にしても、星野源にしても、僕らが見るのはテレビ越しの彼/女らである。そこにいる存在は、「新垣結衣」であったり、「星野源」であり、「普通」の男/女の子というわけではないのだから。

ただ、逃げ恥が放送される直前くらいに、新垣結衣と誰か2人がいろんな街のいろんなところにいって、ご飯を食べたり、お話をしたりする番組をやっていて(雑すぎ)、その時の新垣結衣の話を聞いていたら、すごく「普通」っぽい話で、僕の中で興味を引いたことがあった。ゲイノージンっぽくない発言というか…。

一瞬だったけど、垣間見れる「普通」の側面があったわけなんだけど、そういうことかな?と。もし、そういう感覚であれば、新垣結衣に魅力があるというのは、わかる気もする。

(やっぱり星野源にとって、新垣結衣の存在って大きいんじゃないの?って勘ぐってみたり笑) 

 

* * * * *

 

こんな感じかな。

適当に感想を書いてみました。

やっぱり、文芸の感想を書くのは得意ではない。

 

でも、小難しくもなく、有名人ではあるけれど、普通の人とそんなに変わらない日常がそこにはあって、想いを綴っている文章がそこにはあって…。

論理とか、正しさとかそういうのではなく、素直に感想を凝らしてみるというのは、やはりなかなか楽しいなと。

 

もっといろんな話がしたい。

いろんなことを聞いたり、話したりしたい。

そう思った。

誤読

 

実はショッピングは嫌いではない。

たまにきれいなポップがあったりもする。

そういうのを見るのは割と好きだ。

 

でも、 

 

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これだと

「宮崎風」と書いて

「ごはんにかける」と読むのだと

思ってしまうのではないだろうか。