Zwangsvollstreckung

執行とか、本とか、出来事とか。

不法投棄3

 

過去2回。不法投棄について書いた。

月に1度は言及している。

 

さて、前回、不法投棄に対する訴求が強くなったという話をした。

 

では、現在、不法投棄はどうなったのか。

 

 

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増えた。

 

 

 

なぜゴミを捨てるのでしょう。

そこにゴミがあったからだ。

 

以上!

 

予期してしまう悲しさ。

 

一月ほど前の話になるが、おじいちゃんの家に行った。

父方のおじいちゃんで、新潟県にいる。

兄と、父と、僕。3人で車で走った。

 

1年ほど前だろうか。正確な時期は覚えていない。

家の階段で倒れているのが発見されたそうだ。

意識がなかったのだが、無事に回復はした。

 

でも、脳挫傷を起こしてしまったので、もう一人では暮らせない。

なので、施設に入っている。

 

恥ずかしい話だが、僕はしばらく田舎に顔を見せていなかった。

5年ほど行っていなかったと思う。

兄はしばしば訪れていたようだが。

会社も変わり、ようやく行けるような生活になったから、行った。

どうしようもない奴だ。自分でもそう思った。

 

 

一日目。施設に行っても、おじいちゃんは僕のことを思い出せないようだった。

 

父「俺だよ」

おじいちゃん「うん」

兄「俺だぜ」

おじいちゃん「うん」

僕「僕だよー」

おじいちゃん「・・・」

 

そりゃそうだよなあ。5年くらい顔見せてないもん。

覚えてなくても、仕方がないよなあ。

でも、おじいちゃんは、父と兄と、よくわからないおまけが来てくれたことを

喜んでくれたと思う。

恥ずかしがると、頭を掻く。

それは僕も知っている。

 

2日目。

帰り際に、もう一度声をかけてみる。

僕「僕だよー」

おじいちゃん「・・・」

僕「ヤッホー!覚えてるー!?」

おじいちゃん「うん」

僕「そっか。覚えてたかー。よかった。忘れられてたらどうしようかと思ったよアハハ」

・・・

おじいちゃん「また、いつでもあそびにおいで」

 

びっくりした。

短いあいだだったけど、もっとも長くしゃべっていた。

ほんとうは、はっきり聞こえなかった。

でも、どう考えても、「また、いつでもあそびにおいで」と言っていたと思う。

子どもの頃は、毎夏、遊びに行っていたので、その時のことを思い出したのかな、なんて思った。

「必ず、また来るよ。いつまでも元気でね。って、大丈夫だよね」

そういって、僕も施設を出た。

 

東京に帰ってきて、兄の奥さんも合流して、飲みに行った。

バカみたいな話をしていた。友達同士みたいな。

 

おじいちゃんの話になったので、僕は言った。

「おじいちゃん、最後にね、また、いつでもあそびにおいで、って。そう言っていたと思うんだよね。はっきりとは聞こえなかったけど、でも、そう思うんだ」

それからしばらく、沈黙があった。

 

********

 

僕は、なんとなくだけど、おじいちゃんに対し、力のようなイメージを持っている。

毎年訪れるたびに、腕の力こぶを見せてもらっていた。

 

とてもたくましい、働く人の腕。

すごーい!っていいながら、見ているのが好きだった。

僕、筋トレは嫌いだが。

 

今ではだいぶ小さくなってしまって、かつてのようなイメージはもはや感じなくなっていた。

それでもおじいちゃんはおじいちゃんなのだが、なんだか時の切なさを感じざるを得ない、形容しがたい気持ちになっていた。

 

でも、なんだかとても悲しい。

 

この先に待っていることが、見えてしまうようで。

 

*************

 

正直、人の一生の終わりは、よく見てきたほうだと思う。

知っている人も。まったく知らない人のも。

それは、いつも突然やってきていたように思う。

 

けれど、終わりが予期できてしまうということに、遭遇したことはなかったかもしれない。

でも、そういうことは、あまり考えないほうがいいのかもしれない。

幸せであれば、それで。

そう、心に言い聞かせることしかできないのかも。

 

暗い話で申し訳ないが、書き留めておきたくなったから、書き留めた。

留めておきたくて。

それだけ。

いのちの車窓から見つめること。

 

会社の同僚が貸してくれたので、読んだ。 

 

いのちの車窓から

いのちの車窓から

 

 

星野源の書く文章って、ずいぶんと読みやすくなったかなと思う。

文章を書くことがうまくなったというか。

もともと下手な人ではなかったと思うけれど、なんというか、聞き触りのよい文体で書かれている…といえばいいのか。

(文字を聞く、みたいなちょっと変な話になっちゃったけど)

 

ちょっと強い言い方をすると、なんか無毒化されているような文体でもある。広く、多くの人に共感を得られるような。そういう文章になっているような気もする。

なんだか、星野源は「ポピュラー」になって、それが文章に現れるとこのようになるのかな、という感じ。

 

僕の勝手なイメージだけど、正直にいえば、もっと心のノイズ的なものを期待していた。ノイズ、を具体的に説明しようとしてもなかなかうまくいかないが、なんだろう、日常とそれに対する違和の感性、みたいな。違和じゃなくてもいいんだけど。

 

別に表現はうまくなくてもいいのだが、そのノイズを表明するところに面白さがあったように思うし、それがまた星野源という存在のユニークさになっていたような気もするけど、そういう部分がちょっと薄まってきたのかな?という印象。

まあそれが悪いとか、いいとかではなくて、なんとなく、存在が変わったのかなというだけの話。もっとも、心のノイズ的なものの記述を期待するということ自体が、ちょっと強引に期待を寄せている感もあるし…。

うまくいえないけど、ノイズ的なものが常にその人にある、みたいな想定をしているわけではなく、なんかそういうノイズ的なものとは、心のなかで波動のように観測されるべきものなのかなあ、と思ってはいるんだけどね。

(波動って言いたいだけなんだけど)

 

* * * * *

 

まあ、僕の星野源像はさしあたりどうでもいいだろう。わけわかんないし。

思ったことを3つ書く。

 

大泉洋

個人的に大泉洋の話が一番面白かった。といっても、星野源の話が面白いというよりも、大泉洋という存在が面白いという感じなんだけど(笑)

なんというか、大泉さんって、星野源のこと大好きなんだろうなあと。小学生のころ、よくいたような、好きな女の子に対して無駄にちょっかい出しちゃうような感じ。

でも、なんか、大泉さんって、人のために一生懸命になってみたり、なんだかんだ悪態をつきながらも、ちゃんと星野源のことを見ていたりして。

子どものような純真さなんだろうな、と。そういう純真さを持っている大人が一番に憧れたりする。

僕、ほんとうは、あまり大人になれない人だから…。

 

②人見知り

 それまで、相手に好かれたい、嫌われたくないという想いが強すぎて、コミュニケーションを取ることを放棄していた。コミュニケーションに失敗し、そこで人間関係を学び、成長する努力を怠っていた。

 それを相手に「人見知りで」とさも被害者のように言うのは、「自分はコミュニケーションを取る努力をしない人間なので、そちらで気を使ってください」と恐ろしく恥ずかしい宣言をしていることと同じだと思った。(99-100)

 あー。うん。わかる。わかるよー。と思って、心に刺さった。

僕も似たようなもので、僕もよく人見知りだという。僕から相手に近づくよりも、相手から近づいてきて、それに合わせているほうが楽だなあ~と思うことのほうが多い。でも、そんなの、本当に自分本位だなと思って、落ち込むことだってある。

けれど、やっぱり、自分から近づかなきゃ!という強迫に駆られるのも違うと思うし。どうしたらいいんだろう、なんて思うこともよくあるなあ、と。

でもまあ、素直になるのが、一番いいような気もしている。本にもそう書いてあるけど、好きな人には好きといえばいいし、素直な気持ちで接すればいいのかなあと。

 

もっとも僕の場合、素直すぎてやらかすことも多いが(笑)。基本的に、すごいと思ったことは素直にほめちゃうのだけど、ナチュラルに人を傷つけたり、ね。

あとは、デリカシーがなさ過ぎて、後々「うわぁぁ、やらかしちゃったなあ。嫌われちゃったかなあ。そうだとしたらどうしよ…」みたいな感覚が時限爆弾のように襲ってきたりする。

結局、僕の場合は、こういう問題って常に心のどこかにあって、ノイズとしてうにょうにょ心を漂い続けている状態なんだけど、でもまあ、なんだか前向きになれる。そんな気がした。

 

新垣結衣

僕、生きてるうちに新垣結衣という文字列を文章のなかで打つことはないと思っていたんだけどね…。

まあでも、新垣結衣って、すごく繊細で、いい人なんだろうなあと思うし、きっと星野源と波長が合っているような気もする。

俳優と「普通の人」という関係の話はなかなか面白い。有名になればなるほど、俳優からは「普通」さが消えていくが、新垣結衣はそうではなかった。「普通」の女の子として魅力的なのだ、という話は割と面白いなと思った。

いつ、いかなる時に「普通」さが垣間見れるのかは、よくわからない。新垣結衣にしても、星野源にしても、僕らが見るのはテレビ越しの彼/女らである。そこにいる存在は、「新垣結衣」であったり、「星野源」であり、「普通」の男/女の子というわけではないのだから。

ただ、逃げ恥が放送される直前くらいに、新垣結衣と誰か2人がいろんな街のいろんなところにいって、ご飯を食べたり、お話をしたりする番組をやっていて(雑すぎ)、その時の新垣結衣の話を聞いていたら、すごく「普通」っぽい話で、僕の中で興味を引いたことがあった。ゲイノージンっぽくない発言というか…。

一瞬だったけど、垣間見れる「普通」の側面があったわけなんだけど、そういうことかな?と。もし、そういう感覚であれば、新垣結衣に魅力があるというのは、わかる気もする。

(やっぱり星野源にとって、新垣結衣の存在って大きいんじゃないの?って勘ぐってみたり笑) 

 

* * * * *

 

こんな感じかな。

適当に感想を書いてみました。

やっぱり、文芸の感想を書くのは得意ではない。

 

でも、小難しくもなく、有名人ではあるけれど、普通の人とそんなに変わらない日常がそこにはあって、想いを綴っている文章がそこにはあって…。

論理とか、正しさとかそういうのではなく、素直に感想を凝らしてみるというのは、やはりなかなか楽しいなと。

 

もっといろんな話がしたい。

いろんなことを聞いたり、話したりしたい。

そう思った。

誤読

 

実はショッピングは嫌いではない。

たまにきれいなポップがあったりもする。

そういうのを見るのは割と好きだ。

 

でも、 

 

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これだと

「宮崎風」と書いて

「ごはんにかける」と読むのだと

思ってしまうのではないだろうか。

不法投棄2

1ヶ月くらい前だろうか。

不法投棄について書いた。

 

うちの近く、家賃は高くない割にそれなりに小綺麗なところなんだけど、どういうわけか不法投棄が頻発する。というより、目立つ。

確かに、ゴミを捨てるのにお金は結構かかるんだが…。

 

で、不法投棄をすると、もれなくコメントを貰えたりする。

もっとも、それが不幸な動機によって行われているのはいうまでもないが。

 

この前、不法投棄を見つけて、それがもれなく「コメントがありました!」状態になっていたんだけど、あれから1ヶ月くらいたった今、どうなっていたのかというと、

 

 

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こうなってた。

 

人は「やつ」に変わり、

訴求がかなりキョーレツになってた。

 

ちなみにここ路上なんで、誰が管理しているのか、すなわち誰がこの場所を「所有」しているのかは、グレーだったりする。まして、不法投棄されているもの自体が造作物でもなく、動かしやすい物体なので、ぶっちゃけた話、責任の所在を移動しようと思えば簡単にできたりする。

 

自分の管理している範囲から出てしまえば、「管理」 する必要はないわけだし。

この辺りは方便としてもよく使われることだけど。

 

もちろん、ここで訴求されているように、責任は「誰か」に向けられているし、「誰が」置き去りにしたのかが、第1に問われることなんだけど、そんなの簡単に分かることじゃない。

 

誰が責任を所有しているのか。そのことを考える上で、不法投棄の事例は興味深い。

もっとも、その場所を所有している人からすれば経済的にも心理的にもたまったもんじゃないし、そういう気持ちは、わかる。

僕も重量400キロはある耐火金庫を不法投棄したやつのことを思うと、絶対ゆるさない!とか思ったもん。

 

ただ、これを捨てた人はもうこの地域にはいないと思う。時期的にも、そんな気がする。

 

それでもなお、こうして特定の「誰か」に向けて、訴求は強まっていく。もうここにはいない、この訴求を見ることもない「誰か」に向けて。

 

宛先はあるが、不着となる呼びかけだけが、虚空を揺蕩い続けているのだ。

 

 

******************

 

と、それっぽいことを言ったが、1番皮肉なのは、文言がきつくなっているにもかかわらず、

不法投棄増えてんだよね…。

画像左のピンク色の物体。

 

 

他人の責任のもとに置かれているゴミは捨てられない。けど、実際そこにゴミが置いてあるので、それを見て人は不法投棄をする。という悪循環。

なぜゴミを捨てるんですか?そこにゴミがあったから。

それもまた、人がその場所をどう判断し、理解しているのか、興味深い問題ではある。

深刻なのはわかってるが。

【ギデンズ読書会】『社会の構成』第4回 振り返り

 

第4回の振り返りです。

ざっくりまとめましたが、内容があっていないかもしれません。

「大体こんな話だったな〜」というので思い出していただけば、それで…(すんません)。

 

輪読範囲

第4章 「構造・システム・社会的再生産」

 7節.矛盾

 8節.歴史をつくる

 批判的注解ーー「構造社会学」と方法論的個人主義

 

第5章 「変動、進化、権力」

 1〜5節まで

 

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■第4章(7節〜)のおさらい

 

○「矛盾」という概念のおさらい

・「構造的矛盾」ってなんだ?「闘争」との関係ってなんや?みたいな疑問がありましたので、ポイントをさらってみます。

 

[本文よりまとめ]

・矛盾→社会理論において不可欠(229)

 下記、2つの意味で用いていくべき。双方とも、論理学的な意味での矛盾と連続性をある程度保っているが、直接的な拡張ではない、とのこと。

 ⑴「実存的矛盾」

 人間それ自体は自然に依拠しつつも、自然とは切り離された部分を持っているということ(神学的な話でイメージするといいらしい)。

 ⑵「構造的矛盾」

 人間社会の構成的な側面であり、構造原理が作用する要素。構造原理は、相互に関係しあいながら作用するが、同時に相互に侵犯しあう。(230)

 →システムを組織化する構造原理が分裂すること(234)

 →生活様式が多様化するなど、異なるカテゴリーをもつ集団の間で対立が発生する

    ような利害の分割が起きること。(235)

 

 ※構造原理とは

 そもそも、この概念は、社会統合/システム統合のモデルを説明する上で使われる概念です。

 構造:社会の制度化された特徴のこと(222)

 →構造原理:社会的全体性を組織化する原理(222)

   諸構造:社会的システムの制度的分節化に関わる規則ー資源群

  構造特性:時間と空間を越えて伸張していく、社会的システムの

       制度化された特徴

 

 <ざっくり所感>

 かなり端折りますが、ギデンズはここで、マルクスの分業の議論に従っていまして、分業はマニュファクチュアにおける時間ー空間の伸張に関わっているといいます。伸張に際し、「外部の環境」が変動を与え、労働の再配置を生む。このとき、時間ー空間を越えて伸張した、制度化された慣習は、単なる変換/媒介関係を持っているわけではなく、それ自体が再生産の構造を持っているという。システム再生産の条件を理解することが、システム再生産の条件それ自体の一部になっているという構造なのだ、ということを指摘しているのだと思います。(228)*1

 

 ⑵「構造的矛盾」はさらに二つに分けられる。

  A.「一次的矛盾」

  社会的全体性の構成に介入する矛盾

  B.「二次的矛盾」

  一次的矛盾に依拠、あるいはそれにより生成される矛盾。

 これは、社会類型の分析に関連づけられるべきで、その社会の構造がはらむ矛盾は、どのように特徴付けられるべきか、という問題になっていきます。

 個人的には、5章の4節以降にも関連すると思っています。

 

・闘争

 矛盾と同じ調子で使用されることがあるが、闘争は、行為者あるいは集団どうしの現実的な争いである。それに対し、矛盾は、構造的な概念。

 (構造的)矛盾があることは闘争を過熱化させるが、矛盾は闘争を必ずしも生み出すわけではない。異なる階級間での接触があるなど、現実的に闘争活動が生起しうるコンテクストが必要だからということでした。

 

○批判的注解でのブラウへの批判について

方法論的個人主義者が誤っているのは、社会的カテゴリーが個人に関わる術語による記述へと還元することができると主張する点である。(256)

この部分は量的屋さんにとっても当てはまりうる批判なのでは?という話が。

→事象を、統計的変数のみで説明することに対する批判。

 しかし、実際にはデータの「解釈」が必要なのではないかというお話でした。

 

ちなみに、本書におけるこの部分の含意をざっくり拾うと、

  • 「構造社会学」と方法論的個人主義は、二者択一ではない。なので、構造と拘束を等値として考えるのはやめましょう。
  • 大事なのは、能力付与と拘束の関係は、構造の二重性の観点から捉えること。
  • それによって、歴史のような構造特性を形成し、かつそれに形成される人間実践(行為?)の記述が可能になる。

ということのようです。(256)

 

そういえば、今回、構造と拘束の話してませんでしたね(笑)

 

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■第5章のおさらい

 

第5章の議論は基本的におさらいのみ行っていたので、ざっくり内容をさらってみます。

 

○ギデンズ先生の仰りたいこと

社会変動の数多の理論、なかでも進化論的な理論を脱構築し、社会生活の構成に内在する権力の本質を再構成することである。(263)

                  ※太字は、本書では傍点となっています。

 

なかなか危ういワーディングですがw、ざっくり、

①これまで進化論が社会変動の理論で援用されてきたけど、

 そもそもそれって論理的に破綻してますよってことを指摘し、(1〜3節)

②代わって、社会変動とそこで作動する権力が、

 どのように社会生活の組織化に影響しているのか分析してみますよ(4〜5節)

ってことになるかと。

 

○第1節 進化論と社会理論

 ここでは、良い社会進化論とダメな社会進化論について教えてくれます。社会進化論に必須な要素は下記の4つ。

  1. 生物学的進化論(ダーウィン的な)と概念上の連続性がある程度あること。
  2. 社会変動のメカニズムを特定(説明)している論であること。
  3. 社会発展における連続する諸段階の特性がなされていること。
  4. 社会変動を支配的なメカニズム=「適応」のメカニズムとして説明すること。

この4条件を満たしていないものはそもそも論外なのでは…というお話です。

 

○第2節 適応

 社会進化論における適応は、なんだか拡大しすぎていたり、論理的に循環していたりでしっちゃかめっちゃかだという批判が主です。

 適応の概念を社会的なコンテクストで用いると、意味が広範になりすぎてあらゆるものを説明しちゃうため、「何かそれっぽいけど実際に何も説明していない」という事態になるということですね(このまとめみたいにね)。

 要は、進化論的なモデルを社会変動に組み込むこと自体がもれなく論外。

 

○第3節 進化と歴史

 ということで、人類の歴史は(生物学的な)進化論のような形状は持っていません。そして、それに当てはめようとする企図ももれなく有害です。

 この有害な思想が与えてしまう危険性をまとめると、社会変動を説明する際に、単系的で至上のメカニズムを想定してしまうことになっちゃいますよっと。

 

○第4節 社会変動の分析

 と言っても、変動に関する一般的定式化が不可能なのだ、ということでもなく。

ポイントは、社会変動を説明するのにもっとふさわしい概念があるということで、それは以下の5つですよっと。

  1. 構造原理
  2. 時間ー空間の縁
  3. 間社会的システム
  4. エピソード性
  5. 世界時間

ここで新しく出てきたのが、4と5ですね。

「エピソード性」とは、始まりから終わりまでの一連の連鎖を持った多数の出来事や行動のことです。国家の形成のように、社会的全体性の制度に影響を与えるような、一連の変動の連鎖を同定するということです。この時、前提となるのは、社会的全体性が含む構造原理を背景として、変動が進められると想定することですね。(281)

 

「世界時間」とは、反省的にモニタリングされた「歴史」という視点からの接合*2の検討と説明されています。社会変動とは、コンテクストの変動に応じ性質を変えていく環境や出来事の接合に依拠していると。これは、多様な間社会的システム(たち)が、それぞれエピソード的な移行に関して相互に影響を及ぼしあい、変動のコンテクストの中に位置付けられます。そして、そのコンテクストとは、その場にいる行為者たちが、「歴史をつくる」条件について反省的なモニタリングをする際にも関与するものだと(281-282)。

 

<所感・感想>

こうしてみると、世界時間とは、間社会的システムが、互いに影響しあっているコンテクストなのかなあなんてイメージしています。国家形成と、軍事的権力の調整の例が本文でありましたが、隣接している共同体のとの関係があり、それが一連の制度的な変化を生む…みたいな。そういう「影響を与えているもの同士が位置づく一連の流れ」のようなことだと思っています。

まあこの点、宿題となっていますので、皆さん考えてきてください(笑)。

 

そういう感じで、エピソードが持つ「内包性」(一連の変動が既存の制度群をどれほど深く崩壊・再構成するのか)や「外延性」(変動がどれほど広がっていくのか)、人間の反省性(上記の「世界時間」の通り」なんかも考慮に入れつつ、社会変動に影響を与えるエピソード性を類型化できるんじゃないかということで、ざっくりした内容です。

 

○第5節 変動と権力

 ギデンズとしては、構造化理論をパーソンズフーコーから分け隔てたい(そしてマルクス的な話とも一部切り離したい)と考えているので、この節で、構造化理論における権力の話と、それが変動に与える影響の話をします。

 

ギデンズによれば、権力とは、結果を達成する能力のこと(295)ですが、重要なのは、時間ー空間の遠隔化が、権力の理論と直結しているという点です。それは、「配分的資源」と「権威的資源」を一定の形で結合させ、下部構造となることを意味しています。

 

配分的資源は、環境の物質的特性だったり、生産の手段だったり、財だったりで

支配を拡張する媒体となります。

権威的資源は、社会的な時空間や生活機会組織化や、身体の(再)生産などです。

これらは、共同体がそれを蓄積する容器となります。(296)

 

これら資源を蓄積する容器が、社会が構成される際の構造原理の主要な類型を生み出すようです。特に、時間ー空間の遠隔化を可能にし、かつ、支配の諸構造の再生産において配分的資源と権威的資源を結びつける役割を持っているのが、情報の蓄積だと。

 

情報の蓄積と唐突に出てきましたが、これはマクルーハンよろしく、社会関係の組織化に影響を与えるものです。また、蓄積とは、時間ー空間を接合させる媒体であり、行為の水準において、未来を管理し、過去を想起するものだそうで。ということは、蓄積には、時間ー空間を管理する様式も前提とされている。

そして、権威的資源と配分的資源を蓄積するということは、時間ー空間を超えて社会関係を永続化させることになり、そのために必要となる情報や知識の保有、管理に関わるものとして理解されるべきだ、ということでした。それが権力源となるわけなのだと、(私は)とりあえず解釈しています。

 

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はい。以上です!長かったw

これまで、時間やら空間やら、精神やらで、抽象度の高いお話が続いてきましたが、

いよいよ、構造化理論における「構造化」の部分のお話になってきましたね…。

 

次回は5章の批判的注解と6章をやります。

大詰めですねー。

ではでは。

*1:ちなみに、これは制度的分析に対する批判として論が展開されており、制度分析では、時間ー空間を越えて伸張した、制度化された慣習のクラスター化に含まれる変換/媒介関係が詳しく語られるという。そうではなく、構造の二重性を強調することは、この一連の流れをめぐる、再生産の条件を分析することにその本眼があるのでした。ちなみに、ここで再生産の様相を描く例となっているのは、マルクスのM-C-M関係の話です。その資本の循環構造が再生産されているということを示す上では、概念のギアを変更することが重要なのだということも、同時に指摘しています。それは、制度の分析による構造関係の分析それ自体が、再生産の条件を説明するわけでもないし、構造が生起した理由を説明することもないからです。

*2:ここで言っている接合とは、「ある特定の時間と場所で一定のエピソードに関連する諸々の影響どうしの相互作用を言い表している」そうです。

雨の日と何気ない身近なもの

 

毎年この時期になると、住んでるところの近所では地域の園芸クラブが活動をし始める。そして活動を終える。桜が咲いて散るように、ほんとこの一瞬だけ園芸をする。

 

そういう出来事なので、普段はすっかり頭の中から抜け落ちているのだけど、ふと気がつくと、今年も手を加えていたようだ。

そうすると、道がとてもはなやかになる。

 

今日は雨。

どんよりとした空。

こんな日は、家でゆっくり過ごすのがいい。

 

でも、グランマックの200円クーポンが当たったので、近所のマクドナルドに行くためだけに外へ出た。ただそれだけなのだけど、行きがけに、花壇の花が綺麗に咲いているのが見えた。

 

晴れの日もあざやかだけど、なんというか、雨の日も、いのちのみずみずしい部分を感じる。単に濡れてるだけかもしれないが。

 

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花は咲くものであって、枯れるものではないのだと思った。

ごめんなさい。

それが言いたかっただけ。